徒 然 日 記

04/11/27(土)

先日上野で、『フィレンツェ−芸術都市の誕生展』『HANGA 東西交流の波』を見てきた。

先ず、『フィレンツェ−芸術都市の誕生展』の方へ。
14〜16世紀の芸術、文化都市フィレンツェを多角的に紹介した展覧会。
絵画、彫刻、金工、織物、建築から医療・科学に至るまで広範囲な展示があった。
目玉になっている絵画作品はパンフになっているポライウオーロの「婦人の肖像」ともう一つボッティチェリの「婦人の肖像」。
ボッティチェリの絵はなかなか日本では見られないので、小品だけれど嬉しい。

また、羊皮紙で作られた各分野の技法書などの写本が素晴らしかった。特にそこに描かれている写本装飾画は、発色も素晴らしく、「ロレンツォ・メディチの肖像」(1489年/紙)は、とても何百年もたっているとは思えない程の生々しさで、びっくり。技術の高さを見せ付けられた。
実験や医療に使われたのだろうか、陶製の蒸留器、壁画や建築用と思われる大きなコンパスなども印象に残っている。

私としてはもう少し絵画に力を入れて欲しかったナァという気がした。それとちょうど祭日しか行く日が無く、予想はしていたけど混んで混んで・・ ┓(´_`)┏オーノ〜
                                東京都美術館にて開催、HPはこちら


次に、『HANGA 東西交流の波』の方へ。
こちらはうって変わって、ゆっくりと鑑賞できた。こうでなくっちゃな〜。内容も見応えがあり、満足度はこちらの方が大かな。

西洋の遠近法を取り入れた蘭学者や浮世絵師、逆にその浮世絵から影響を受けた印象派の画家達。
そこから現代に至るまでを東西合計100人以上の作家作品(各1、2点だが)が展示されている。分かりやすく興味深いラインナップで作品が並び、とても面白かった。
さらにゴッホの最期を看取ったガッシュ博士が所有していた銅版画プレス機(現、芸大所有)も無造作に置かれてあって、感慨深い。
日本側で印象に残ったのは、北斎、歌麿の「画本虫撰」(これは感激だった)それと加納光於、野田哲也。
西洋側ではアンディ・ウォーホール。「マリリン・モンロー」はやっぱりインパクトある。複製、大量生産、メディアそんな言葉が次々と浮かぶ。神経症的なルドン、ピカソの「貧しい食事」もよかった。
                           東京芸術大学大学美術館にて開催、HPはこちら


04/11/24(水)

『凍える牙』乃南アサ(新潮社)読了。
東京の郊外のファミリーレストランで、突然男が燃え上がる不可解な火災が起きる。一方ベイエリアで、獣によって首を食いちぎられた遺体が見つかる。二つの事件に関わりはあるのか否か・・。

事件の展開もさることながら、主人公である警視庁機動隊捜査隊所属の女刑事、音道貴子の存在が魅力的だ。
警察という男社会の中、バツイチで三十路を超えた女性の孤軍奮闘の日々。著者は音道貴子をして、その年代の女性が世間や組織、家族に対して持つ、軋轢やら矛盾やら不満を実にみごとに語らせている。共感する女性も多いのではないかと思う。
また、コンビを組んだ中年のオッサン、滝沢刑事とのやり取りも味がある。お互い意地の張り合いで、なかなか相手に弱みを見せない。コレが男同士の刑事物とかになると人情味が鼻についてイヤになることもあるけれど。ギクシャクした感じがかえってリアルで良かったりする。

面倒な人間関係に疲れた彼女が、大都会に見た野生とはなんだったのだろう。
人間より獣の方が、裏切らず、時に崇高なことだってある・・。


04/11/23(火)

『江戸にフランス革命を!』下 橋本治(中公文庫)読了。
この巻では、「明治の芳年」「安治と国芳−最初の詩人と最後の職人」に書かれている江戸から明治にいたる浮世絵の変遷が一番面白かった。
明治になり、テーマの変化、媒体の変化、手法の変化がある。浮世絵師も江戸を踏襲するもの、新しいジャンルに挑戦するもの、対応も様々だ。
月岡芳年は、「無惨絵」「残酷絵」で有名だが、それ以外にも美人画や新聞錦絵で独特な美意識を発揮した浮世絵師だ。繊細でややもすると神経質な煩雑さを感じる画風。2度の発狂も、さもあらんという感じだ。

井上安治の風景画の寂寥感はどこからくるのだろう。橋本氏は「私が知る限りでは、日本で最初に「寂しい・・・」という感情を表現してしまった“少年”である。」としている。
また、これまでの浮世絵の風景画というものは、実のところ“風景画”というよりは、そこに人間がいる“情景画”“光景画”である。 と言い、風景に描かれた人物、人情ドラマを自分と重ね合わせることによりその“風景を持つ”と述べている。『東海道五十三次』しかり『富嶽三十六景』しかりな訳だ。
しかしながら、安治の絵の中には人物はいない。いても「演技」をしていない。淡々と風景が存在するのみ。江戸にはなかった、見たままを描く、ありのままを絵とする近代性があるように思える。
安治は26歳で夭折している・・。

・加藤コレクション
井上安治、小林清親、月岡芳年などの作品が見られます。

・「みかけはこわいがとんだいい人だ」国芳
数々の「武者絵」や、あの高橋克彦を唸らせた「相馬の古内裏」で有名な国芳ですが、ユーモアと
トリッキーな構図にかけても抜群の才能を発揮。まるでアルチンホルドです。


04/11/18(木)

『江戸にフランス革命を!』中 橋本治(中公文庫)読了。
上中下の真ん中。上下巻とは趣を変えて、ここだけは一問一答というか、細かくテーマが分けられて(52項目)さらりとエッセイ風になっている。
例えば、
6 明治維新はサムライ・クーデター
「江戸ってなにかといったら、今にしてみれば、それは一種の保留状態であるってもんなんだよね。」

・・と、まぁ全編このように優しく語りかけられるのだけれど、所々に独特のひねりがあって逆に難しい。
江戸というのは、どうも当初の神君徳川家康の作ったものが理想であって、最初にして最高。時代の流れの中で「逸脱」するものをチェックする管理社会、理想に戻す「ご改革」の修正主義。
「〜であるべき」「あるべき姿」というものが先ず存在した時代という感じがした。
明治維新・・新しい世の中になるべくして、古代から続く天皇が・・復古?考えれば、考えるほどよく分からなくなる。


04/11/13(土)

『江戸にフランス革命を!』上 橋本治(中公文庫)読了。
「過去の持つ呪縛をもう一度あらためて解き放つ為にも、人は今改めて、既にして呪縛を纏い終えている自分自身の現在を明確に自覚すべきなのだ。その自分自身を覆う呪縛から自由になる為にも、人は再び、それぞれの呪縛を明確にする意匠を纏うべきなのだ。」という著者のもと鋭い考察が展開される。

着物、歌舞伎、日本髪などをあげて、じっくりと江戸の“様式(てつがく)”“段取り”を論じていく。
日本髪のところは、理路整然としていて興味を持った。

ファッションにおける江戸時代は、女が男になることによって始まったという。すなわち、女が髷を結うようになったことだ。それ以前の女の髪型は「おすべらかし」であって、それが出雲の阿国の男装によって男髷が結われた。そこから近世がはじまる。平安の古代が切れたということ。

   日本髪・・おでこの上にある「前髪」 男の子がこれを失うのが元服、女は終生あり。
         顔の両側の「鬢」 男はこれを膨らませず、女は膨らませる。
         後頭部からうなじにかけての「髱(たぼ)」 
         以上の3つのパートをあわせて、「髷」という形にして頭に据える。

前髪月代
(さかやき)
武士  無ピッタリ撫でつけピッタリ撫でつけ  有剃る
町人  無やや膨らみやや膨らみ  有剃る
少年 *有ピッタリ撫でつけピッタリ撫でつけ  有剃らない
 *有膨らませる膨らませる  有剃らない
非人  無やや膨らみやや膨らみ *無剃る
公家(男)  無ピッタリ撫でつけピッタリ撫でつけ  有*剃らない
浪人  無ピッタリ撫でつけピッタリ撫でつけ  有 *剃らない
公家(女)  有膨らませる *無
おすべらかし
 *無
おすべらかし
剃らない

・小さな男の子と女には、中剃というものもあるらしい。
・面白かったので、大雑把に表にしてみました。(不正確かも。あしからず。)

形には意味がある・・つくづく感じる。外見が秩序を完成させる重要アイテムなのだ。
江戸を転覆させるものが、大いなる「余分」な存在であった公家と浪人。共に月代を剃らぬ者。兜を被るとき蒸れて上せないために剃るわけだから、平安貴族が剃るわけがない。また、仕官を離れた浪人は剃る必要がない。「明治維新がこの二者の合作というのは偶然の一致なんでしょうか?」とは著者の弁。

前髪、鬢、髱で、髷をつくる。
「「三は一を作るが、しかしその一は四でもある。」という流動性が江戸の根本なんじゃないか−だから“全体である個”には必ず“各部”が存在する。
各部なるものを押さえる段取りこそが、江戸の職人性なんじゃないかと思いますね。」
こう言って著者はこの「江戸の段取り」の章を締めくくっている。

上、中、下と別れているが、上だけでも十分面白い。以降が楽しみだ。


04/11/6(土)

『氷雨心中』乃南アサ(新潮文庫)読了。
表題作を含む6編からなる短編集。6編に共通するのは、主人公が職人であることだ。
お香、染め物、日本酒、能面・・。ひたむきにそれぞれの仕事に打ち込む主人公が、いかに事件と関わってくるか。その関わらせ方が実に上手い。
狭い人間関係、細かい作業、集中力、こだわり・・どの短編もそれら凝縮されたエネルギーから閃光を放っているかのようだ。

お気に入りは『青い手』 青い手とは、線香を扱うとその色素がしみつくことから。母親の実家のお香屋に伝わる最高級の練り香「薫霊香」。一年に一度しか作らないその香りには「秘密」があった。
冒頭、小学生の拓也が母に連れられて実家に来た時から、香りが低く漂い始め、ラストで濃厚かつ妖しい香りが一気に沸き上がる。事件は秘かに起きていた。著者がそれとは書かぬところが、何とも心憎い。
それにしても、この前読んでた薫君の亡霊がこんな所で出るとはね・・。

職人という言葉はとても好きだ。芸術家は思いこみでなれるが、職人は思いこみではけしてなれない。と思うが。


04/11/4(木)

『源氏五十四帖題詠』塚本邦雄(ちくま文芸文庫)読了。
一帖ごとに、最初に塚本氏の五十四帖それぞれの題詠歌一首、次に物語の中で各巻のタイトルの由来となった歌、続いてエッセイ、という構成になっている。
総論的、通読的な源氏論ではない。一帖一帖塚本邦雄の美意識の結晶のような歌と文章で、どの巻をとってもそれ一つで十分堪能できる。源氏関係の本を読んだのは久しぶりだったけれど、斬新で、塚本色鮮やかな源氏論に目が覚める思いだった。

特に印象に残った歌を・・

(夕顔)  その夏のわざはひの夢わがために一莖のゆふかほぞ裂かれし

たおやかな一茎の夕顔。漆黒の闇に白い花びらが引き裂かれる。儚い夕顔が句の中でもゆふ/かほと引き裂かれているではないか。

(紅葉賀) 屏風たたまれつつ紅葉のひとひらを挟む一夜はそのままにあれ

源氏は藤壺の前で、青海波を舞う。宴が終わり屏風がたたまれるとき紅葉が挟まれるかもしれない。
若々しく美しい源氏。藤壺への憧れと愛情。変わらぬように挟み込んでおいてくれというのか。否、不義密通のあの一夜は知られずに、そのままにあれというのだろうか。

(野分)  風のかなたに散りまがふもの花と鳥こころと言葉殊にわが戀

この野分は趣と変化があって好きだ。荒らされた前栽などの情景が目に浮かぶよう。
夕霧は見舞いに訪れた六条院で、紫の上を垣間見てしまう。あまりの美しさにこころ穏やかでない。さらに表向きは父親の源氏と玉鬘の親密さにも動揺を隠せない・・。
あとがきの解説でも触れていたが、エッセイの最後に「野分とは、そのまま十五歳の「未青年」の心の風景でもあった。」とあるが、野分の一帖をこれほど美しく表した言葉はないと思った。

(匂宮)  匂宮は匂いに痴(し)るるおのづから香に立つ馨君ときそいて

宇治十帖の好対照の二人、匂宮と薫。、宮は贅を尽くして麝香、伽羅をたきしめ、一方薫は生まれたときからその身体から香気漂う。前者は享楽的で明るい。実は源氏の直系、血は争えない。後者は懐疑的で冷静沈着。実は源氏の子ではなく、女三宮と柏木の不義の子。

さらに、読み応えがあったのは、島内景二氏との『源氏物語』対談。
塚本氏の文学者としての卓越した感性と国文学者である島内氏との対談は、正に絶品。本書の三分の一を占める長さだが、読み終わるのが惜しいような面白さ。
訳について、人名巻名について、和歌について、不義密通について、汲めども尽きぬ感の『源氏物語』。その素晴らしさを十二分に提示してくれる対談でした。


10月 12月