徒 然 日 記

04/10/31(日)

『花のメルヘン』北垣篤編(八坂書房)読了。
八坂書房は、植物関係の書籍を多く送り出しているので、私も愛読させてもらっている。
本書は、八坂書房刊のいくつかの本から抽出された内容を、読みやすい形に編集したもの。
読んでみて興味が湧いたので、もとになった本も読んでみようかなと思った。

植物が登場する神話、伝説、寓話などを民族や国、時代別に紹介してあり、また仏典、聖書の章などももうけてある。
載っていたギリシア神話から二つ、よく知られているものを・・。

ナルキッサス(冷淡・利己主義・愚かさの象徴)

スイセンの学名ナルキッサスは、古代ギリシアのナルキッソスからきている。
エコーは、美しいナルキッソスに恋いこがれたけれど、報われることはなかった。燃え尽きて骨は岩となり、声は彷徨い、呼びかける人に返事をするだけになった。
神々はナルキッソスの冷淡と傲慢を罰するために、彼を不思議な情熱の虜にした。
ある暑い日、狩をしていた彼は涼を求めるために、澄んだ泉にたたずんだ。その時、泉に映る自分の顔に魅せられてしまう。
やがて、少しずつ容色が衰えてくると、寝食もままならず死んでしまった。
ただ、遺体のあった場所には一輪の花が咲いていた。それはボウイッツ・ナルキッサスと呼ばれ神々や人間に好かれた。

ザクロ(希望・豊饒・不死・復活の象徴)

ゼウスの正妻ヘーラーは、しばしば高い玉座に座って、片手に豊饒多産の象徴であるザクロを持ち、もう一方の手には先端にカッコウのとまった杖を持っている。
また、ザクロは地獄の果実でもある。
女神デーメテール(大地の力、穀産に関わる)の娘コレー(ペルセポネー)は、冥界の王プルートーン(ハーデス)に略奪され妃とされてしまう。黒幕はゼウスで、怒ったデーメテールはオリュムポスを去り、地上で人間達と暮らし、彼女に親切な人に恵をあたえ、不親切な人を呪った。(大地の恵に関わる神だけに人々には死活問題だ。)
困ったゼウスはハーデスにペルセポネーを返すように説得する。仕方なく応じるハーデス。
しかしペルセポネーが冥界を去るそのとき、ザクロを食べるようにすすめ、彼女はその実を食べる。
ザクロを食べた魔力のために、彼女は冬の間は冥界にとどまらねばならなくなった。けれど、あとの半分は母親である女神デーメテールと一緒に過ごせるようになった。よって女神は人間に親切になり、稔りを与えることになった。

ギリシア神話は、あまり説教臭くなくて好きだ。

本書で扱われている文献(一部)いずれも八坂書房刊
  ・『花の神話と伝説』 C・M・スキナー 垂水雄二、福屋正修訳
  ・『仏典の植物』 満久崇麿
  ・『聖書の植物』 H&A・モルデンケ 奥本裕昭編訳  


04/10/28(木)

『辻征夫詩集』辻征夫(現代詩文庫78)読了。

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     |/\| (注:三角を蝶のように向かい合わせにした題名)

  カミクズが
  風に吹かれている
   と思っていると

  カミクズが
   花にとまった

  なんだ
  紋白蝶か
   と思っていると

  蝶ではない!
   と羽に書いてある

  蝶でなく
   カミクズでもなければ

  なんだ?
   と思っていると

  頭がちょっと
   痛くなって

  わたしが
   蝶になって

  カミクズのようにころがりはじめた
  ころがりはじめてとまらなかつた
                             (詩集『いまは吟遊詩人』より)

視線の軌跡が鮮やかに見える。−蝶でもなく、カミクズでもない?−視線が停止し、思考開始。
今度は自分が蝶でもなくカミクズでもないものに同化する。
ころがり続けて、詩の最初に戻って繰り返し。永遠にくるくる回り続けるのは詩精神だろうか。
自分が蝶になったのか、蝶が自分になったのか・・そんな漢詩もあったっけ。
風の中を、形にならない曖昧な想念が流れていく。

  荒れる冬の海から
  吹いてくる風が
  ひととき
  きみをつつんで
  またどこか とおくへ
  吹きすぎて行く
  そんな
  風のようなものだと
  私を思うことはできないか
      (中略) 
  吹きすぎ 吹き渡っても
  わたしは風
  荒れる冬の海と春の荒野が
  わたしをたえず
  きみのもとへとおくりつづけてやまない
                              (詩集『隅田川』風より)

なんて魅力的な人なんだろう!ちょっと格好良すぎる。まいったな。
愛する人に語りかけた、シャイな告白。 未だ混沌や、葛藤を抱えている未完成な自分を、荒れる冬の海から吹く風だという。荒削りな風は、ときに愛する人に痛みを与えるかもしれない。
しかし新鮮な風は、愛する人を澱んだ空気で疎ませることはない。
一陣の風とともに瑞々しい感性と感性の交換がある。そんな愛し方をしていこう。そう言っているように思える。

一冊読み終えて、この人の魅力は流動性にあるなぁと思った。堆積するような重さではなく、通過する軽さ、旅人のような叙情性があるように感じた。
だって、名前からして辻を征く夫じゃない? 
はずかしげに、美しい言葉の玉やユーモアの種を置いていく、そんな旅人のように思えた。


04/10/26(火)

『吉原幸子詩集』吉原幸子(現代詩文庫56)読了。
およそ女性の肉体を感じさせない。クリスタル製の少年みたいな女流詩人だ・・これが第一印象。
全編に流れるナルシシズム、また成熟への反感のようなものを感じた。

  パンの話

 まちがへないでください
 パンの話をせずに わたしが
 バラの花の話をしているのは
 わたしにパンがあるからではない
 わたしが 不心得ものだから
 バラを食べたい病気だから
  わたしに パンよりも
 バラの花が あるからです

 飢える日は
 パンをたべる
 飢える前の日は
 バラをたべる
 だれよりもおそく パンをたべてみせる

 パンがあることをせめないで
 バラをたべることを せめてください−               (詩集『夏の墓』より)

ストイックというのじゃなくて、貪欲なのだ。自らを呪わしい存在と思いつつ、どうしようもないのだ。
収録されているエッセイで、実際作者は若い頃、テーブルに飾ってある花を食べたという。
見ているだけでは物足りなくて、どうしても交わりたいと思い、あげくに食べることしか浮かばなかったそうだ。本人も感傷的で若気の至りといっているが・・。
激しい渇望−それがなければ創作は出来ない。

鋭いトゲをもった感性と自意識、生きにくさを生きた人なのではなかったかと 思う。


04/10/25(月)

『楢山節考』深沢七郎(新潮文庫)読了。
表題作の他、『月のアペニン山』『東京のプリンスたち』『白鳥の死』収録。
先日読んだ『死の壁』で深沢作品が取り上げられていたので、読んでみることに。

テーマは「姥捨て」だ。舞台は信州の極貧村、この村では70歳になると「楢山まいり」と称して、老人を楢山に捨てにいく習慣がある。主人公のおりんは、自らの身の処し方を淡々と受け止め、準備を進めている。
気丈なおりんは、この歳になっても欠けずにある丈夫な歯を火打ち石で叩き、それでも欠けないので石臼にぶつけて歯を欠かす。この村では、年老い者が立派な歯をもっていることが恥なのだ。
人が生きていく為には食料がいる。・・しかし、食料が足りない。・・では、厄介者を選んで減らすしかない。用済みになった老人と不必要な赤ん坊は殺すというわけだ。
貧困の前には、ヒューマニズムなんてお笑いぐさなのだろうか。

野生動物には老いは無いという。弱ったものは食べられて、死しかない。老いの入る余地はない。
おりんを楢山に置いてきた後、孫夫婦がおりんの綿入れや帯を、当たり前のように身につけている。何の滞りもない、昨日から今日へ。恐ろしいほどの日常。著者の人間を見る目の冷徹さ、ニヒリズムが露わになる。

息子がおりんを背負って、楢山に着くとあちこちに白骨が散乱している。凄惨とも、一種清浄とも言える光景が脳裏をよぎる。からから、ぽきぽき、という音が聞こえてくるようだ。

おりんは、立派に「楢山まいり」を行うために振舞酒を蓄え、ご馳走の溜め込み、山で座るござを編み、老婆に相応しく歯を無くす・・。
それは死に方だろうか、生き方だろうか・・分からなくなった。

凡百の悩みを書いた小説など、吹っ飛んでしまいそうな圧倒的な力強さと、虚無感があった。


04/10/21(木)

『死の壁』養老孟司(新潮新書)読了。
ご存知『バカの壁』の続編ともいえる本。同様に口述筆記で書かれており、噛み砕いた文章で読みやすい。
「死」を主題に据え、なぜ人を殺してはいけないのか、生死の境目、脳死、安楽死などについて、解剖学者の視点から述べている。あとがきにもあるように、氏が今まで色々なところで書いてきた「死」についてを纏めたような感じだ。

興味深かったのは、生と死の境界は実に曖昧だということ。これは10年以上前の『唯脳論』の頃から述べられていることだが、身体の不思議、奥深さを感じてしまう。
「死の瞬間」というのは「生死」という言葉を作った時点で出来てしまった概念に過ぎず、実際には存在していない。−というのは養老孟司を読み始めてから知ったことだ。

また、「この世はメンバーズクラブ」だという。そして、死の基準を決めるということは、その脱会基準を決めること。因みに「間引き」というのは入会審査のようなものだそうだ。
それぞれの共同体によって、基準はまちまちだ。日本には日本の古来からの暗黙の了解のようなルールがある。
脳死臨調で哲学者の梅原猛氏が、共同体の総意に関わる「死」の基準を、一部の医者が安易に決定することに釘をさしたというようなことが書いてあったが、大変価値あることだと思う。

養老氏は自著『涼しい脳味噌』で、初等教育に宗教、哲学、論語を欠くのが、今の日本の教育の欠点だ。と書いたことがあった。現代社会のバックボーンとなるだけの思想が今、あるだろうか。
医療は技術だと思う。技術は進歩する。その度に死の基準が変わることになるのだろうか。
心を置き去りにした死が、本当に人を滅ぼすことになるのではないかと思った。

身近な者の死はやっぱりこたえる。生き残っている者に影響を与え続ける。死んでも死んではいない。
養老氏は、このような死を二人称の死と言っていた。


04/10/14(木)

『吉野弘詩集』吉野弘(現代詩文庫12)読了。
一つ下の、日記にある詩集は、この文庫に入っている吉野弘の3冊目の詩集だったようだ。ランダムに読んでいったので、初めの作品を後に読むことになった。

    −諸君!
     魂のはなしをしましょう
      魂のはなしを!
     なんという長い間
     ぼくらは 魂のはなしをしなかったんだろう−
 
 同輩たちの困惑の足下に どっとばかり彼は倒れた。  つめたい汗をふいて。
 
 発狂
 花ひらく。
 
    −又しても 同じ夢。
                          (詩集『消息』burst より)

初期の詩は、労働組合運動に力を入れていたこともあって、労働者、資本、組合、ストなどの運動を意識した言葉が多く目に付く。時代だなぁという感じがした。
しかし、どの詩も挫折と虚無感が漂う。幸か不幸か、会社組織の中でも、組合の中でも作者の居場所はなかったようだ。魂のはなしは、別の世界ですることになったのだから。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく
 僕の脳裏に灼きついたものがあった。
 
 −ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体−。

                                      (詩集『消息』I was born より)

父親は、息子にこう話す。“蜻蛉は、2、3日しか生きられず、何の為にこの世に出てくるのか分からなかった。するとある日、友人が蜻蛉の雌を見せてくれた。腹の中に卵がぎっしり充満していて、ほっそりした胸の方までせまっていた・・。そんなことがあってからすぐに、お母さんはお前を生んで死んだ・・”
引用は、詩の最後の段落。最終の一行で、以前この詩を読んだことがあったのを思い出した。
神々しい透明感に包まれた母子のイメージが記憶に蘇ってきた。
死んでゆく母と、生み出される子。脈々と続く生命の流れは、残酷でもある。
生と死のせめぎ合いが、神秘的な高みにまで称揚されているように思った。  


04/10/12(火)

『続続・吉野弘詩集』吉野弘(現代詩文庫123)読了。
詩集を読むのは何年ぶりだろう。少し緊張し、期待し、でも肩の力を抜いて・・
作者は感動を認識し、確かな思想に照らし合わせて再構築する。目に見える文字に変換していく。
だから、文字の向こうには膨大なその人の精神が広がっている。一編一編読む毎に、そのような思いが込み上げてきた。

 あらゆる生きもののうち
 最も精緻な出来損ないは人間だ
   
 その人間の所業のすべてを
 せめて 
 眼に満たされた青い光波に
 ゆらゆらと遊ばせ拡散させていたい
 見えるものすべてを
 私に、批評させず憎悪させず
 ただ受容させるために
                            (詩集『自然渋滞』モジリアニの眼 より)

瞳の無い、モジリアニの人物は何も見えず、何も批評しない。ただ澄んだ青があるのみ。
鋭すぎる感性を持った詩人の、常人には見えないものまで見えてしまうことの辛さ。
批評せずにはおられない己の業に対する忸怩たる思い。あるいは他者を傷つけることになる自己に対して、恐怖しているのかも。

 庭土から掘り出され
 鉢の新しい土になじむまでの
 根のさぐりかたを私は想っている
 
 必要なだけの土を
 緻密に組織する根の、なまめかしい抱擁術
 それが私には、少し妬ましい
 
 私と言えば − 人間稼業を終えたあと
 軽くなって土の中に送り込まれ
 土を抱くすべもなく、崩れて土と交わるだけだ。
                              (詩集『自然渋滞』少し前まで より)

詩の他に収録されてるエッセイに、「花木人語」と題されたものがあり、樹や花や草、根や果実や匂いにいたるまで、植物と向き合ったものが多い。
初めて読む詩人だけれど、とても共感を持った。
上記の詩は、ずっと読みすすめてきて、珍しくちょっとエロティックだな、と思った。
少し前まで、庭の隅に生えたいたものが、あっけなく引き抜かれて鉢植えにされてしまったが、どっこい彼は新しい土とのランデブーを始めているのだ・・。
植物の弱さと強かさ。その強かさへの嫉妬と憧れだろうか。 花はいわば公然と生殖器を掲げているけれど、そちらではなく、人に見られることない根に作者の意識が向く。
自分のやり方で、根が土に淫しているとみる作者。なんと静かな官能と生命感に満ちていることか。

久しぶりに詩人の言葉というものを読んだ。小説にはない作者のストレートな感情や思考の提示に、新鮮な感動を覚えた。
色々と紹介して下さったYさん、どうも有り難うございました。


04/10/11(月)

『なまみこ物語』円地文子(中央公論社/日本の文学50)読了。
何と言っても、構成が面白い。
著者が幼い頃、父の書斎で偶然見つけた古い綴じ本「生神子物語」を、40年経った今、それを思い出しながら自分なりの「なまみこ物語」として書いてみよう、ということで小説は始まる。
しかし、その幼いときに見つけたという「生神子物語」も実は、『栄華物語』『大鏡』には書かれなかったであろう側面を意識した「栄華物語拾遺」という性格をもった、著者の架空の物語なのだ。

「生神子物語」は、一条天皇の時代、中宮定子に使えた一侍女の波乱に満ちた生涯を書いた物語で、歴史的事実である道隆−定子の凋落と、道長−彰子の繁栄に、一侍女「小弁」が加わって、定子、道長と関わりながら物語をなしている。

尊敬し、敬愛する定子に、定子自身は気づかぬことながら、小弁は恋人の心を奪われることになる。そして、どうしても拭い去れない嫉妬の心に小弁は苦悩し、悲劇的な結果になる・・
愛憎のドラマの面白さより、私には虚実織り交ぜた王朝物の面白さ、構成の妙が印象的でした。

『妖』円地文子(中央公論社/日本の文学50)読了。
ある初老の夫婦の有り様を、淡々と描いたもの。子供たちは独立し、妻は以前から古典の英訳をして某かの収入を得ることが出来るようになっており、夫に経済的にも頼ることが無くなってきていた。ますます助長される空疎な夫婦生活・・
だが、妻の千賀子には老いを実感しながらも、逆に心は自由に解き放たれた感があった。
老いて、妖艶。老いて、妖怪・・。

“同じような入れ歯の入った姥口をすぼめ合って、別々の老年が一つの家の中で止むを得ず互いの自我を磨 滅させていくのかと思うと、千賀子は、老いることの呪わしさに呻きだしそうな昂奮を覚えたのである”とある。− 何ともやり切れない。老いは両方に平等に降りかかってきている。
千賀子も、他人には入れ歯の食事時にたてるカチカチいう音が恥ずかしいが、夫の前では何の恥ずかしさもない気安さがある。とも言っている。

いまさら、離婚だなんだと言う若気はない。いわば、老いを優しく共有しながら、心は別々に彷徨い、遊ぶ。人生の深まり方にも色々ある、と思った。


04/10/7(木)

瞬く間に10月7日に。最近やっと空気がヒンヤリとしてきたような気がする。早くこちらでも紅葉が見たいけれど、それはまだまだのようで。

『女坂』円地文子(中央公論社/日本の文学50)読了。
白川倫(とも)という女性の半生を通して、明治という封建的な時代に生きた女性の強さ、自我の目覚めを描いている。またそれは女と男、妻と夫の戦いのようでもあった。

夫の白川行友は、家においては絶対的権力を持ち、外では冷徹なエリート、しかも女遊びが絶えない。
倫は、行友から家の全てを治める支配人としての地位を与えられているが、女としての幸せはない。同居する妾二人は行友にとって人形に過ぎない。家を維持していくことを自身の矜持として、毅然と夫の横暴に耐え続ける。

印象に残るエピソードがある。夫婦が若かった頃寝間に蛇が入り込み、倫が夫の胸に這い上がったそれを、つかみ取って庭へ投げた。というもの。
何か野性的な、強靱な、愛と言うには余りにも激しい気性をよく表していて、私は好きだ。

晩年、身体の具合が悪い中、登る坂道・・
“見上げると緩い傾斜の坂道はまだまだつづいている。七分通りは登ったと思ったが、まだやっと半分だった。”
誰に頼るわけでもなく、愚痴など当然言わない。そんな倫が、心身共に疲れ切っている。それがずっしりと伝わってくる。

こう、一本筋の通った文学らしい文学を久しぶりに読んだ、という火照りを感じた。
ラストは倫の埋み火が、一瞬燃え上がったように思えた。


9月 11月